当サイトはロズウェル事件の真実について解明するサイトです
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事件の歴史 or 背景
- 1947年6月14日:ブラーゼルが牧場に散らばる物体を目撃。 - 1947年6月24日:ケネス・アーノルドがワシントンで正体不明の飛行物体群を目撃。「空飛ぶ円盤」と表現される(参考2参照)。 - 1947年7月2日:ダン・ウィルモット夫妻がロズウェルの北方上空で燃えるような物体が墜落していくのを目撃。 - 1947年7月4日:ブラーゼルが牧場で散乱した物体を発見、一部回収(7月3日という説もある。 - 1947年7月6日:ブラーゼルがコロナへ行き、拾った物体の事を話す。叔父から「空飛ぶ円盤」が全米の話題となっていることを聞く。 - 1947年7月7日:ブラーゼルはロズウェルに向かい、拾った物体の事を保安官ジョージ・ウィルコックスに話す。 - 7月8日:保安官の連絡を受けた航空隊情報部ジェシー・A・マーセル少佐らがフォスター牧場を訪れる。マーセルはブラーゼルの発見した残骸及び周辺に落ちていた物体を回収し、基地に持ち帰った。その後、残骸はロズウェル基地を経て、テキサス州ダラスのフォート・ワース基地へと運ばれた(そして最終的には、オハイオ州デイトンのライトフィールド基地[現ライトパターソン空軍基地]の格納庫18番[ハンガー18]へと運ばれたと言う説がある)。 また同日午後、マーセルの報告を受けたロズウェル基地司令官ウィリアム・H・ブランチャード大佐はRAAF情報部ウォルター・ハウト中尉に「RAAFが円盤を回収」と発表を出すよう指令を出し、『ロズウェル・デイリー・レコード』に同記事が掲載された。AP通信アルバカーキ支局員が取材に訪れ、事件は全米に伝えられた(プレスリリースにおいて「円盤」という言葉を使うよう指示したのはマーセル少佐であるとも言われる)。しかしその後、ロズウェル基地の司令官、ロジャー・レイミー准将がラジオに出演し、「円盤と呼ばれたものの正体は気象観測用の気球であった」と訂正報道を行う。 - 1947年7月9日:レイミー准将の訂正報道が『ロズウェル・デイリー・レコード』に掲載され、1947年のロズウェル事件は事実上ここで収束した。 - 1978-80年:米国のUFO研究者(核物理学者)スタントン・T・フリードマンらが当時円盤の回収にあたった、(退役後の)ジェシー・マーセル元少佐らにインタビューを行い、ロズウェル事件の”再検証”を開始した。それら取材内容をもとに、マーセルはドキュメンタリー番組『UFOs are Real』(1979)、雑誌『National Inquire』(1980)などに登場、その中で回収した物体が「スレッジハンマーで叩いてもびくともしない」こと、「自由自在に伸縮する」こと、更に「写真公表時には航空隊が物体をすり替えた」といった"当時の記憶"を公表し、話題を呼んだ。そして1980年、フリードマンに協力したビル・ムーア、チャールズ・バーリッツらが『The Roswell Incident(邦題:ロズウェルUFO回収事件)』を発表。事件当時、異星人の死体と円盤が目撃されていたことなどが、"隠蔽された事実"として記述された。この本を端緒に、当時事件に直接的または間接的に関与したと主張する人々が多数現われ、ロズウェル事件は再燃することになる。そしてこの余熱は現在まで続いており、第二次世界大戦以降にはじまった現代UFO問題の原典としてロズウェル事件は広く認知されることとなる。 - 1987年 : スタントン・T・フリードマン、ウィリアム・ムーアらが、「MJ-12(マジェスティック・トゥエルヴ)」文書を公開。MJ-12文書は1947年に書かれたものとされ、その内容はロズウェル事件によって回収された異星人の遺体、円盤の残骸らを調査する大統領直属の極秘UFO調査機関の存在を示唆するものであった。またMJ-12の存在を担保する覚書「カトラー・メモ」が国立公文書図書館の中から発見されたことで、文書の信憑性は極めて高いものとなった。しかしその後、懐疑派らの検証によって、MJ-12文書、カトラー・メモには公文書にあるまじき書式ミスがあることが認められ、またトゥルーマン大統領のサインが他文書からのコピーであったことなどが指摘されたため、何者かによる捏造である可能性が高いと結論された。しかしなお、それ自体が政府の陰謀であるとするビリーバー側の反論も根強く、真偽を巡って今なお議論が続いている(更にその後「マジェスティック12」は政府のブラフであり、本当の陰謀は「マジョリティー12」と呼ばれる機関であるといった陰謀論が、ビル・クーパーらによって主張された)。 - 1994年:ニューメキシコ州の議員スティーヴン・シフ氏が会計検査院(GAO)に働きかけ、ロズウェル事件に関する当時の空軍の情報を精査するよう命じた。またそれを受けて、空軍も独自に調査を開始し、当時ブラーゼルの牧場に墜落した物体が、「円盤」でもなければ、訂正後の「気象観測用気球」でもない「モーグル気球」とそれに付随するレーダー反射板であるという試論を提示した。モーグル気球は、ソ連の核実験を空気の震動によって検知することを目的とした高レベルな機密扱いのプロジェクトであったため、当時ロズウェルで回収にあたった陸軍航空隊はその実験が行われていた事を知らず、故に誤報などの混乱が生じたという合理的な結論であった。またその証拠として、事件の起きる一月前の6月4日、アラモゴードからモーグル気球が打ち上げられる実験が行われ、ロズウェル方面に飛んだ一つが回収できていないことなどが明らかにされた。しかしこの発表は残骸について説明を与えるものであれ、当時目撃されたという異星人などについては何の説明もないため、UFO信奉派らから更なる批判を呼んだ。 - The GAO Roswell report and Congressman Schiff. - Skeptical Inquirer - HighBeam Research - 1995年 : 「異星人解剖フィルム」が公開された。映像に映し出された”異星人の死体”は、1947年7月ロズウェルにも近いソコロに墜落した円盤から回収されたもので、フォートワース基地で解剖、撮影されたものであると喧伝された。フィルムの真偽を巡って、今世紀に至るまで激しい議論が交わされたが、2006年4月、英在住の特殊メイクアーティスト、ジョン・ハンフリー氏が製作者の一人として名乗りを上げたことでひとまずの終止符が打たれた。しかしその後も、フィルムを発表した英国の音楽プロデューサー・レイ・サンティリは、フィルム自体そもそも実際に彼が目撃した、ある映像を元にリメイクしたものであり、映像の中に使われている5%は本物(つまり本物の「異星人解剖フィルム」は別にあるということ)である、といったことを主張し続けている。 - X51.ORG : 異星人解剖フィルム ― エイリアン製作者が遂にカミングアウト - 1997年:米空軍は94年の発表に加え、異星人の遺体問題などに答えるべく、再び調査報告を提出した。空軍が新たに提示した試論とは次のようなものである。 1.当時複数の人が円盤墜落地で目撃したと言われる「異星人の遺体」の正体は、米陸軍航空隊が行っていたプロジェクト・ハイ・ダイブ(ゴンドラ気球からパラシュートをつけたマネキンを落とす降下実験)のマネキンであり、それが地表に落ちていたのを、目撃者が異星人と誤認したものである。 2.ロズウェル事件の当時、フォートワースの病院内で、しばし「頭が大きく、奇怪な目をした生物」が歩いているのを目撃したといった証言があるが、それは実験中、ゴンドラのアクシデントで大けがを負ったジョセフ・W・キッティンガー大佐の姿を誤認したものである。キッティンガー大佐はゴンドラごと地表に墜落し、頭部及び顔面がひどく腫れ上がる症状(外傷性血腫)に見舞われ、その姿は現在のエイリアン像のような姿であった。 ただしこれら実験が行われていたのはロズウェル事件よりもだいぶ遅れ、1954年から1959年にかけてであったため、UFO研究者らの間からは無関係なこじつけであると、ただちに批判の声が上がった。しかし空軍はロズウェル事件の証言者らが80年代に想起する形で報告していた事実を指摘し、50年代前後に機密計画として行われていたこれら一連の実験とロズウェル事件、それらが目撃者の記憶の中で錯綜して生まれた逸話ではないか、と主張した。一体なぜ米軍がわざわざ異星人目撃報告についてまで強引な科学的説明を試みようとしたのか、その理由は定かではないが、いずれにせよ空軍はこの231ページに及ぶ研究報告「Roswell : Case Closed」をもって、ロズウェル事件についての調査を事実上終了している。 - CNN - Air Force says of Roswell: 'Case Closed - June 24, 1997 - Roswell Report : Case Closed - 2000年以降の動きとしては、UFO信奉派の一部により、当時スターテレグラム通信が撮影した「残骸を調査するレイミー准将の手に握られた紙片」の"解読"が進められ、その結果、それが軍高官から送られた極秘メモ(エイリアンの存在をほのめかす文書)であったといった主張が行われている。この主張を巡って現在まだ決着を見ないが、この主張に関する肯定派、懐疑派のやり取りはまさに教義を巡る古文書解読論争のプロセスにも似る。 - Roswell Proof Reconstruct 【参考1】空飛ぶ円盤・未確認飛行物体(UFO)・異星人の乗り物 空を飛ぶ正体不明の物体について、「空飛ぶ円盤」という呼称が定着したのは、ロズウェル事件の1週間程前に起きたケネス・アーノルド事件の時である(詳しくは下の参考2参照)。1947年以前にもそれら謎の飛行物体の目撃は存在したが、その頃はまだ「UFO」とも「円盤」とも呼ばれず、代わりに「フー・ファイター(写真)」或いは「ゴースト・ロケット」などと呼ばれていた(また更に古く19世紀末には「幽霊飛行船」といったものが北欧や欧米で目撃されている)。これら正体不明の物体について、「UFO」という呼称がいわれ始めた時期は定かではないが、米軍が正式に「UFO」を用語として採用したのは、1951年のプロジェクト・ブルーブックの時期である(参考5)。この頃、米軍はメディアや市民の間で用いられていた「空飛ぶ円盤」という呼称が、無駄にミステリアスな語感を持ち、市民を困惑させるといった理由から、メディアに働きかけ、代わりに「UFO」という言葉の定着に努めたと言われる。 ただしこれ以降、米軍が正式に用いたUFOという言葉が指すものは、決して「異星人の乗り物」ではなく、語義通り「未確認な飛行物体」を指していることには注意しなければならない。つまり目撃されたUFOの正体が鳥であれ、気球であれ、金星であれ、異星人の乗り物(エイリアン・クラフト)であれ、それはその正体が確定されるまでは等しく「UFO」なのである。今日でもこの齟齬はUFO問題を語る上で常に支障となり、例えば「米軍がUFOを調査している」、「宇宙飛行士がUFOを目撃」といった報道は必ず過剰な反応をもって受け入れられるが、それは必ずしも「米軍が異星人の乗り物を調査している」、「宇宙飛行士が異星人を目撃」という意味にはならない(限定されない)。 現代の検証によれば、1947年以降(即ち第二次世界大戦終結以降)、米軍は主に冷戦下における国防上の理由でUFOに関心を持ったと言われている。特に米軍が恐れたのは、それら飛行物体がソ連からの偵察機であるいう憶測と、しばし起こるフラップ(UFO集中目撃)時の報告殺到によって軍の情報網がパンクすることであった。事実、円盤目撃が盛り上がりを見せた40年代後半から50年代初頭にかけて、米軍はプロジェクト・サイン(初のUFO公式調査計画・参考5)を設置して、米国各地におけるUFO目撃情報の収集を開始したが、全米各地から淀みなく寄せられる円盤目撃報告処理のために、軍の通常業務に支障が出るといった事態さえ発生していた。 それは軍がまだそうした情報を処理する方法論をもたなかったことが大きいが、その裏側には、第二次世界大戦が終結し、冷戦の開始と共にはじまったソ連からの核攻撃に対する恐怖が、米国市民に恒常的に不安感を与えていたという背景があった。すなわち、当時の米国は軍部も民間も、"空を飛ぶ変なもの"はすべからく怪しまなければならない状況だったわけである(※1)。更にUFOがソ連製であるにせよ、そうでないにせよ、このUFO現象と米国民の不安定な状況を利用して、情報網をかく乱し、ソ連が米国に脅威を与えるという可能性(例えば虚実を混ぜた奇襲攻撃の可能性)もあったため、米軍にとってUFOはまさに内憂外患たるやっかいな存在であった(※2)。 このように米軍は表面上"まともな"理由からUFO問題に取り組みをはじめたが、一方では、40年代後半、UFOがソ連のものではないという論調が強まるにつれ、その代わりとしてUFOが異星人の乗り物であるとするETH(地球外生物仮説※3)を信じた者も多かったと言われる。例えば当時米軍内のUFO調査研究(参考5)を主導したルッペルト大尉(写真)は、退役後の1956年、個人として『The Report on Unidentified Project(邦題:未確認飛行物体に関する報告)』を著しているが、その筆致はプロジェクト・グラッジに見られるUFOのこじつけ的な科学的説明にも反省的であり、地球外生物仮説について肯定的でさえある。また天文学者アレン・J・ハイネック博士のように、そもそもは懐疑的立場の科学者として軍の調査活動に協同して研究を続けるうち、説明不能なケースに突き当たり、中立的な立場へと"転向"した学者もいる。 - Blue Book Archive - X51.ORG : UFOは異星人の乗り物に非ず 英国防省が公式見解を発表 - X51.ORG : エイリアンの顔は、お母さんの顔 - 冷戦下で進められていた「空飛ぶ円盤」の開発 ※1.ユングはUFOが丸いこと(円盤)に着目し、それら戦争の恐怖の裏返しとして人々が空に安心・調和を求め「円環」のシンボルを見ているといった解釈を行っている。UFOを心理学的現象と捉える向きはユング以降、しばし見られるが、いずれも簡単な試論に過ぎず、いまだ確たる理論はない。しかし米国で80年代頃からはじまったアブダクション現象の隆盛以降、再びUFO(異星人)問題が心理学的現象であると見る傾向も強くなってきている。 ※2.この当時、米国がUFO問題について軽い混乱に陥っていたのに対し、同じく冷戦下の緊張状態にあったソ連では、メディア上でUFOに関する情報がまるで報告されていないことが、既に米国の情報機関によって確認されていた(目撃の有無ではなく、報道がなかったということ)。そしてこの事実はむしろ米軍を困惑させた。何故ならばもしその理由が、社会主義下にあるソ連が国策でもってUFOに関する情報規制を行っているためだとした場合、米国に飛来するUFOがソ連製であるという憶測を一層強化するものになりえたためである。 なおソ連が崩壊した現在、実際のところ当時のソ連(また社会主義陣営)がUFOに関して如何なる情報を持っていたのか、情報が少ないため定かではないが、ソ連のメディアでUFO問題が本格的に話題となるのは、例えば1989年のボロネジ事件に見て取れるように、80年代、すなわちペレストロイカ以降のようである(ただし上述ルッペルトの著書によれば、冷戦下の1954年、東欧ルーマニアなどでも、UFOのフラップが発生し、米国(資本主義陣営)のプロパガンダであるといった報道がなされたようである)。 ※3.Extraterrestrial hypothesis:地球外生物仮説。ただしこのETHという言葉がフレーズとして定着したのは後の1969年頃(コンドン報告の時代)であるという。 【参考2】 ケネス・アーノルド事件 1946年6月24日、米ワシントン州レイニア山付近を自家用機で飛んでいた実業家ケネス・アーノルドが高度3000メートル上空を「信じ難い速度(時速2000kmと推測)」で飛び去る9つの飛行物体を目撃。アーノルドがこの事件を管制塔に話すと、着陸したヤキマ空港には既に記者が到着していた。アーノルドの話は驚きをもって迎えられ、記者達は彼の目撃談を「空飛ぶ円盤現る」といった見出しで報じた。渦中にあったアーノルドが実業家であったこと、また保安官代理も務める信頼に足る人物であったことも作用し、この不可思議な話題は一気に全米へと伝えられた。アーノルドはこのとき、「物体は三日月型をしていた」と述べた上で、「水を切って飛ぶ皿のようだった」と語ったが、新聞記者ビル・ベケットは聞き間違えたのか(或いは恣意的に書き換えたか)、記事には「空飛ぶ円盤(Flying Saucer)」として報じた。こうして現代まで続く「UFO=空飛ぶ円盤」というイメージが生まれた(またこの報道が、ロズウェル事件の「円盤」報道における下地となったことは多くの研究者が指摘するところである)。 アーノルドの記事が話題になり、周辺地域から続々と類似の報告が届けられるようになると(※)、彼はその先駆として新聞社から法螺吹き呼ばわりされることさえあった。「十階建てのビルが空を飛ぶのを見たのなら、私だってそのことを口に出したりしませんよ。」という名言を残し、でっちあげであることを否定した。アーノルドが目撃したものについては気球や金星など様々な説があるが、、現在なお定かではない。アーノルドの目撃以前にも「空飛ぶ不明物体」(それらは「ゴースト・ロケット」または「フー・ファイター」などと呼ばれた)の目撃例は存在するが、この事件によって「空飛ぶ円盤」というキラー・フレーズが誕生したため、今日ではロズウェル事件と並び、現代UFO史の幕開けを告げる記念碑的事件として位置づけられている。 【参考3】マンテル大尉事件 1948年1月7日、ケンタッキー州空軍大尉、トーマス・F・マンテル大尉がF-51四機からなる編隊でケンタッキー州上空を飛行中、ゴッドマン空軍基地から、基地上空に現われた未確認飛行物体を調査せよとの指令を受けた。マンテル大尉以外の隊員は追跡途中で諦め、近くの空港に着陸したが、マンテル大尉は果敢にも単独追跡を開始した。しかしマンテル大尉は急上昇し過ぎたせいで途中意識を失い、そのまま操縦を失ってF-51は墜落、機体は空中分解し、マンテル大尉は死亡した。管制塔に対し、物体が「恐ろしく巨大で、金属性のように見える」と、その様子を報告を残したのが最後の通信だった。 マンテル大尉のこの「死の追跡」について、当初、米空軍は「マンテル大尉が追いかけた物体は金星の見間違いであった」と説明したが、国民とマスコミの嘲笑を買った。しかし三年後、プロジェクト・グラッジを指揮するルッペルト大尉が、当時同地域において機密扱いで飛ばされていた「スカイフック気球」の実験が行われていたことを突き止め、それが「円盤」の正体であった可能性が高いという新たな見解を示した。しかし今日なお、マンテル大尉の名は「円盤追跡による最初の犠牲者」として記憶されている。またこのマンテル大尉の死亡事故に伴って為された米軍のずさんな調査と発表がきっかけとなり、「米政府はUFOについて何かを隠そうとしている」という陰謀論的推測がはじまったとも言われる。 【参考4】ドナルド・エドワード・キーホー 1949年、ドナルド・エドワード・キーホーは超常現象を扱う『TRUE』誌編集部のケン・W・パーディーから”円盤と米政府の陰謀”についての情報提供を受け、円盤に関する記事を同誌に寄稿した。そして以降、キーホーは言わばUFO信奉者側の代表として、『空飛ぶ円盤は実在する』(1950)、『外宇宙からの空飛ぶ円盤』(1953)、『空飛ぶ円盤の陰謀』(1955)と相次いで著書を発表し、UFOと米政府の隠蔽工作を主張し、世間の関心を集め続けた。カーティス・ピーブルズやピーター・ブルックスミスといった現代の懐疑論者達によれば、キーホーこそが、現代まで続く「UFO隠蔽を図る米政府の陰謀」という構図を始めて提示した人物であり、まさにUFO陰謀史観の立役者であるといった評価も与えられている。 UFO記事の執筆を始めた1950年代、キーホーは既に除隊しており、パルプ雑誌にも記事を書く航空ライターであった。しかし元米海兵隊少佐という肩書きやその経歴(※1)が、彼の著書に説得力を与えていたことは想像に難くない。例えば心理学者C.G.ユングもその著書「空飛ぶ円盤」中で、UFO現象に関する報告例として「私は読者の為にドナルド・キーホー少佐の著書を上げておく」、「キーホーのような信頼に足る人物」(※2)と、彼とその著書を手放しで支持しているが、こうした反応は、当時、彼の著作が如何なる形で世間に受け入れられたかを指し示すものである。 ただしキーホー自身は、決して陰謀説を捏造するつもりで、一連の記事を書いていたわけではなく、その真摯な研究姿勢は彼が本気でそれら陰謀を疑っていたことを示唆している。彼に陰謀説や異星人訪問説の種を撒いたのは、パーディーであることに疑いはないが、しかし彼がもともは生粋の軍人であったことから、海軍に対して全能性の"妄想"を抱き(即ち軍の強固な情報操作能力を信じていた)それがかえって、彼の陰謀史観を強固にしたとも言われる。